写真、引用、メモなどはこちらにまとめます。随時更新。
かつしかめも #2
気になった本、サイトなどメモ&リンク。
■風景関連
・足立正夫『略称 連続殺人魔』(ニコニコ動画、Übungsplatz[練習場]さん経由)http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080803#p2
・松田政男『風景の死滅』
・ジョアヒム・ギャスケ『セザンヌとの対話』
・酒井忠康『開花の浮世絵師清親』
■東京まち歩き関連
・東京バーベキュー http://tkobbq.blog75.fc2.com/
・Chinchiko Papalog http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/
・Kai-Wai 散策 http://kai-wai.jp/
・ぱきらのウォーカーズハイ日記 http://tabipachir.exblog.jp/
・房総史譚 http://bousou.txt-nifty.com/blog
・『シニアが創るミニコミ誌 かつしかまちナビ』
■ニート関連
・ニートのあした「わしらスターダストや」http://d.hatena.ne.jp/asita211/20090224/1235445467
■小説関連
・連載小説空間 throurh いとうせいこう http://seikonovel.exblog.jp/
風景について勉強。『風景の死滅』『セザンヌとの対話』は葛飾の図書館になかったためリクエスト中。小林清親というと風刺画しか知らなかったけど、風景画のほうが有名だったみたい。
ぼくも気になってた立石のお寺の恐竜の絵の壁(http://tkobbq.blog75.fc2.com/blog-entry-228.html)。おなじような場所を歩いて、おなじように気になってる人がいる。新宿区下落合在住ChinchikoPapalogさんのブログが毎回すごい情報量。図書館でみつけたミニコミ誌「かつしかまちナビ」。まちのシニアのひとたちが丹念に土地の記憶を掘り起こしては書き残す。シニアだけにまかせてちゃだめだと思う。三遊亭圓朝の両親が共に葛飾出身だったとか、はじめて知った。
ニートのあした経由、京都大学の非常勤職員の人たちのストについて。ひとごとやあれへん。
葛飾区鎌倉出身いとうせいこうさんの小説、ブログで連載開始。
赤とんぼ
赤とんぼ 三波春夫&コーネリアス
三波春夫といえば「お客さまは神さまです」のフレーズでおなじみですけど、あれべつにお客さま(customer)を神さまみたいにあつかえって意味じゃなくて、聴衆としてのお客さま(audience)と演者としての三波春夫があって、その場での「うたう」という行為の崇高さみたいなものを表したことばだったようです。神を相手にうたう、そういう気持ちがないと、目の前のお客さまには伝わらないんだという。この「赤とんぼ」は、まあ伝わってきます。
・三波春夫オフィシャルブログ「三波春夫の笑顔の秘密」 『お客様は神様です』について
http://www.minamiharuo.jp/blog/2007/04/post_9.html#more
かつしかめも #1
なんでまちを歩くことが自分にとって面白いのか、また同じようにまちについて気になっていたり考えていたりするひとたちが、どういうふうにそれをことばにしたり、あるいはなんらかの形で表現しようとしているのかが気になって、図書館で「都市」「郊外」などのキーワードでひっかかる本なんかを借りては読んでいるのですが、やっぱりおもしろい本っていうのはつねに手元においておきたくて、結局アマゾンやbk1で買ってしまいます。ベンヤミンの『パサージュ論』(岩波現代文庫)もまよったけど結局全巻大人買いしてしまいました。
田中純『都市の詩学』(東京大学出版会)という本を去年のはじめごろ買ったんですが、通読するっていうよりもそのとき気になった章を中心にひろい読みする感じで、そこで引用されてる本をまた探して読んだり、ずっと「足がかり」的に使っています。ほかにもウジェーヌ・アジェ ((ドアノーは結局人がメインな感じがいまいちぴったりこなくて、やっぱりアジェです。)) 『Atget Paris』、『宮本常一写真図録 第一集 瀬戸内海の島と町』(『宮本常一写真・日記集成』は高すぎるので)、森山大道『新宿』、荒木経惟+陽子『東京は、秋』、福井伸宏「Every Sunday(http://www.nobuhiro-fukui.com/index.html)」など、まちを撮った写真が気になってしかたなくて、知ってたけど今までちゃんと見たことがなかったものもふくめて、気持ちがのっているときにおさえておこうと思っています。
ぼくの目にうつる都市は、そのままで巨大な美術館であり博物館なのだ。そうした路上には日々キリもなく生き生きと人臭いアートが充ち充ちていて、わざわざカメラでアートするまでもなく、街衢そのものがリアルな無数の作品である。
(『もうひとつの国へ』森山大道, p166)
夫■もうひとつね、新宿の御苑に向う途中に電信柱がぼんぼんとある。この写真が気に入ってんだ。
妻■電信柱が一杯あって、うっとうしいけどね〜。
夫■さえぎるものが一杯あるのが好きなんだ。この線がなぜかいいんだなあ。いいなあ。(机をたたいた)原風景だなあ。まったくあたり前なんだよ。すべてが原写真。いつも通ってる、なんでもないいつもの所を、なんでもなく撮る。それが欲しいんだよ。
妻■それなかなかできないでしょ。できないと思う。だからそういう写真見ると、すごいと思っちゃう。
夫■だいたい街が表現してるのに、それを複写すればいいのに…。
妻■自分を表現したくなっちゃう。
夫■そうじゃないと表現者とみられなくなっちゃうと思ってる。それがダメなんだよ。(『東京は、秋』(筑摩書房版) 荒木経惟+陽子, p84)
この辺を読んでぼくも机をたたきたくなったんですが、ほんと、まちには全てがあります。視覚、聴覚、嗅覚、それぞれがばらばらに、散漫に、まちを感じて考えています。もうそのままで完璧におもしろい、だから自分からなにか表現する必要なんてなくて、ただそこにあるものを目撃するだけで十分という。まちには見たいものも見たくないものも、好きなものもきらいなものも、会いたい人も会いたくない人も、すべていっしょくたにある、本来きわめて健全な場所なんだとおもいます。きっとおもしろくないまちなんて、ないです。だからまちを歩くこと、考えることは常におもしろいんです。
