かつしかあるく #2 浅草〜業平〜京島〜八広〜荒川土手

machi — タグ: , , , , — takahashi @ 9:00 PM
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浅草から葛飾まで、あるきました。

途中にある「東京スカイツリー(新東京タワー)」の建設現場をみてみたかったからです。新タワーは浅草から隅田川をわたった東側、墨田区の業平(なりひら)というところに建設されています。浅草から雷門の前の浅草通りを東にすすみ、隅田川にかかる吾妻橋をわたってさらにまっすぐいきます(途中の満願堂吾妻橋店で「芋きん」を買うことをわすれません)。業平一丁目の交差点を左にまがると東武伊勢崎線業平橋駅があり、そのすぐ隣が建設現場です。途中の浅草通り沿いには、へんな公園もあります。

北十間川の向こうにみえる建設現場ではおおきなクレーンが何台もうごいていて、そのまんなかになにやら土台らしき骨組みがみえました。通りにはってあった工事の計画表をみると、いまみえているのは「低層棟」の地上鉄骨工事らしく、タワー本体ではないみたいです。よくわかりませんが、ようするにまだまだってことみたいです。

浅草通り沿いのへんな写真建設作業中の東京スカイツリーの写真

「立ち小便禁止」の看板のある川のむこうに、再来年には600m超のタワーができるなんて、なんかよくわからない光景です (( この辺の新タワーをめぐる地元の人の感覚を知る文章としては『PLANETS vol.4』(第二次惑星開発委員会、2008)所収の「東京StrangeWalk」があります。『新下町伝説 超天空610m墨田に東京スカイツリーがそびえる』(東京新聞出版局、2008)は完全に宣伝ですが、地元の工場の人のインタビューなどはおもしろいです。))。ただ新タワーの建設も、現タワーができた頃のような、明るく豊かな日本の未来の象徴みたいな、そういうものではないことは確かです。地デジとかあんまのぞまれてないし、物はたりてるし、所得ふえないし、オリンピックやらなくていいし。おそらく荒川土手からもタワーのそびえたつようすは見えるでしょうし、となりまち葛飾の景色にも関係のないものではないので、できるまでそれなりに気になります。できたあとの景色も。まあ一度はのぼるだろうなあ。

建設現場をあとにして、京成押上駅の前をとおって、京島をめざします。タワーだけじゃなくて、まちのなかでも高層マンションが建設中でした。

押上(おしあげ)の交差点のたばこやさん。奥には建設中の高層マンション。京島(きょうじま)の路地。せまい道の両端に住宅が密集。京島(きょうじま)の路地その2。むかしながらの長屋?のようなたてもの。

墨田区は1947年(昭和22年)、本所区と向島区の二つの地域が合併して成立しました。おおざっぱに(ほんとうにおおざっぱに)わけると区の南部が旧本所区、北部が旧向島区です。どちらの区域もかつては武蔵国葛飾郡に属していて、つまり「葛飾」だったのですが、旧本所区のあたりは早い時期から市街化し、江戸市域(のちは東京市15区)の範囲内でした。本所割下水、今の墨田区亀沢あたりに生まれた葛飾北斎が、「葛飾」をなのっているのは、そこが「葛飾」だったからです。おおざっぱ(ほんとにおおざっぱに)いうと、旧本所区は昔から都会で、旧向島区は郊外、田舎でした。永井荷風の『ぼく(さんずいに墨)東綺譚』や滝田ゆうの『寺島町奇譚』でおなじみなのは、こっちの旧向島区の方です。ついでにいうとお笑いコンビさまぁ〜ずのふたりも、墨田区の旧向島区域出身です。

旅行などからかえってきて、ぼくがほっとするとのは、京成押上をすぎたあたりから、つまりは墨田区の旧向島区に入るあたりからです。体感的にはこのへんから「葛飾」です。墨田区のひとからしたら、葛飾みたいな田舎といっしょにするなと思うかもしれませんが、南葛飾郡とよばれ荒川放水路ができるまでは地続きだったわけで、そのころからの土地の連続性のようなものは、いまもまちの空気に感じられるような気がします ((荒川放水路によって分断された村々の歴史については『新版 荒川放水路物語』(新草出版、1992)がくわしいです。)) 。

京島にはいると、迷路のように細い路地がつづいています。木造家屋がならび、道はまがりくねり、家の前には下町ガーデニング(狭い軒先いっぱいに植木がならんでいる様子)です。キラキラ橘商店街を通ってTVなんかでも有名なハト屋のコッペパンを買って、またぶらぶらと荒川土手めざしてあるきます。

八広(やひろ)の路地。道の向こうにはとおくゴミ処理場の白い煙突。

葛飾の四つ木や堀切、立石あたりにもこうした路地はあるにはありますが、ここまで狭く密なものではありません。やはり京島とその周辺の地域に特徴的な町並みだと思います。でも田んぼのあぜ道を想像させる、曲がりくねった平らなほそい道と、屋根がひくくて空がひろい景色は、ぼくのからだに「ホーム=定位の場」を感じさせます。前に通っていた職場は、どちらかというと山の手の、坂の多いまちにあったのですが、どうしてもからだが違和感を感じるというか「ホーム」に感じることができないままでいました。もちろんその違和感はけっして不快なものではなく、それまであじわったことのないまちとの接し方をからだが必要として、あたらしいあるき方をみつけるための、大事な違和感なのですが。

そのまま八広のまちをぬけて、荒川土手に出て、川を渡って葛飾にはいりました。意外と都内、あるけるものです。ただコッペパンは家につくころには完全にさめてました。

京島(きょうじま)の路地。狭い道に敷地からはみでている木。

新四つ木橋から墨田区側をふりかえってみる景色。遠くにビルがたちならぶ。

かつしかあるく #1 立石〜新小岩

machi — タグ: , , , , — takahashi @ 2:36 AM
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葛飾区立石(たていし)から同区新小岩までをあるきました。

立石を中心とする旧本田(ほんでん)地区は、区内のほぼ中心部に位置しています。この地区にある立石や四つ木(よつぎ)は区内でもわりと早くから市街化したこともあって、工場や商店などの集まる、いわゆる下町っぽい町並みがみられる地域でもあります。区役所も立石にあり、葛飾区の「へそ」といったところです。

映画の撮影に使われたりするのも、古い商店街などがあり、下町っぽさをのこす町並みからでしょうか。おいしい洋食屋さんなんかもあって、ぶらぶらするのにはよいまちです。

駅からまちのなかをぬけ、奥戸街道から中川土手にでます。奥戸街道を右にまがり土手沿いをあるいていくと、やがて区内を南北にはしる平和橋通りにでます。まっすぐ南に歩いていくと、新小岩です。新小岩にちかづくにつれ、通り沿いにビルやマンションがふえてきます。どこをみてもたいてい空がひろい葛飾区にあって、おそらくこのへんがもっとも都会っぽい景色じゃないでしょうか。立石のある旧本田地区から中川をわたった新小岩周辺は、同じ区にありながら通っている電車の路線がちがうこともあり(立石は京成、新小岩はJR総武線)あまり一体感はないように感じます。駅周辺のにぎやかさは(それでも他区の繁華街とくらべるとたかがしれてますが)区内ではほかにないですし、まちには工場も多く、荒川土手とその上をはしる首都高も近いため、かなり雑多でノイジーな印象です。四つ木や立石あたりとくらべると中小といってもやや規模の大きい工場が多い気がします。

立石から新小岩、距離にすると3kmくらいでしょうか、同じ区内にあってもまちの印象はことなるものです。東京近郊のまちを電車の窓からみると、建物の高さや住宅の密度など、一駅ごとにかわっていきます。すこしずつちがった町並みがあつまって、雑多な、それでいてある一定の統一感をたもちながら、よりおおきなまちの景色をつくっています。ひいてみても、よってみても、それなりにおもしろい。

このあたりはザッツ・ゼロメートル地帯でもあります。もともとやわらかい土壌のうえに、たくさんの工場が地下水をくみ上げた結果地盤沈下をおこし、土地のたかさが海面よりも低くなってしまった地域のことです。オランダ(Nederland=低地地方)もしくはミシシッピみたいなとこです。ほとんど坂のない、変化に乏しい地形です。

この柔らかな湿った土地、不安定な足場は、でもわたしが文字通りアットホーム(at home)に感じる場所でもあります。それは、自分自身のからだにとっての「定位の場」 (( このことばは『包まれるヒト』(岩波書店、2007)という本で読んだ、脳性麻痺の人のためにオーダーメイドの椅子をつくっている野村寿子さんという作業療法士の方がおっしゃていたことばです。世界とつながるための「定位の場」を、椅子を通して提供するお仕事についてのインタビューがのっています。ものすごく感動するお話です。ほかにもホンマタカシ、保坂和志、青山真治の話や、環境に包まれることを考える哲学についての文章など、とても刺激的な本です。図書館でぜひさがしてみてください。http://www.jla.or.jp/link/public.htmlから各県の公共図書館の蔵書を検索できます。地元になくても、相互貸借制度を利用すれば他の自治体からとりよせることができます。 )) 、そこから世界をながめる場所です。この場所にある自分のからだからしか、世界とつながっていくことはできません。いちばんしっくりくる場所から出発して、しっくりこない場所のしっくりこない箇所をみつける。でもそのしっくりこなさは、ときに不快ではなく、はじめてあじわう異なるここちよさでもあります。まちは自分のからだの延長のようなものでもあり、それはまちがわたしのものであるということではなくて、まちと自分のからだの境界があいまいである、ということはまちを介して他のからだともつながっているということでもあるはずです。だから、まちをあるくことは刺激的で、ときに興奮します。それがたとえ、地元のなんでもない(ように思える)まちであってもです。

かつしかあるく #0 奥戸 

machi — タグ: , , , , , — takahashi @ 10:14 PM
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半年ほどまえに、べつの場所で「東京の平坦な道」についてのブログをたちあげようとして、一本だけかいた記事です。結局それ一本しかかかずに、ブログのほうは削除してしまったので、少し文を修正して、こっちにアップしなおしました。なぜ「平坦な道」かというと、「東京の坂道」に関する本や文章はたくさんあって、東京は坂のまち、なんていわれるけど、低地そだちのわたしには全然ピンとこなかったからです。だったら東京の坂のないまちについてかこうとおもい、それだけをあつかったブログをたちあげようとしました。ということで、こっちにうつして、また機会をみて「東京の平坦な道」についてかいてければとおもっています。


「葛飾区奥戸(おくど)二丁目の平坦な道」

立石から奥戸街道を小岩方面にすすみ、中川にかかる奥戸大橋をわたったところに奥戸二丁目はあります。中川沿いの道はまわりの土地から高くもりあがっていて、低地にあってそこだけが割と急な「坂」をつくっています。

その「坂」をおりると平坦な土地に住宅と工場がたちならんでいて、平日の午後ということもあり人通りは多くありません。自転車で走っていてすれちがうのは、老人、学生(と おぼしき若者)、学校帰りの小学生くらいで、このまちに流れる時間のほとんどは「オフ」なのでしょう。このまちというか、住宅街なんていうのはおそらくどこも「オフ」で、そういったまちは「オン」のまちをかたることばとは、きっとべつのことばをつかわないとかたることができません。でもおおくの人はそんな一見退屈なふつうのまちにすんでいて、そのまちなみをリアルなものとしてからだは感じていて、だからこそもっとことばにしていいものだとおもいます。

葛飾区内のべつのまちでそだったわたしには、 奥戸のまちなみは、かなりの程度「ホーム」と感じられて、それはまちの景色としては、平坦さと工場のおおさからくるものもあるかもしれません。以前自転車で墨田区東墨田近辺を 散策したときも、両脇に工場がひろがる光景はなぜかすこしなきそうになるくらいに「ホーム」でした。工場からきこえるノイズや、ひくい屋根がひろがるまちなみ(荒川区東尾久出身の友だちにさえ「葛飾って空がひろい」といわれたくらい)は、まるでわたしのからだの一部と感じられるくらいに、身近です。

それを「下町」といってしまうと、わたしの感じているものとはちがうものになってしまいます。葛飾はべつに下町じゃないし、下町としてかたることばは、このまちの現在にとってリアルではありません。まだ 「ゼロメートル地帯」や「低地」のような、地形をあらわすことばでかたられる方が、このまちにそだったからだには、リアルにひびくような気がして、そんな自分のからだからこそ、もっとまちは考えられるはずだとおもうのです。まちはからだにあらわれるというか、からだはまちにあらわれるというか。

で、この道。

本当は写真をとりにいったときにみつけたべつの道について考えようとしていたのに、家にかえってきてから写真をみたらこの道の方がなぜか気になりました。その場でなにをおもってこの道をとったのかおぼえていないし、この道が奥戸二丁目のどこにあったのかすらよくおぼえていません。でも今みると、この道のほうがなんとなくしっくり感じられます(何がどうしっくりなのかもよくわからないけど)。「別の道」は中川土手に続く細い道で、両側に住宅と工場がならんでいて、途中で少しまがっているので、道の入り口からは直接土手はみえません。でも土手に通じる、川の気配みたいなものは、あります。近辺を散策していると、いつのまにか道が中川土手につづいていたりして、道によっては土手が奥に直接みえて、少し景色に風通し(水だけど)があたえられます。

この道の先にそういった風通しや、「ぬけ」みたいなものは感じられません。でもどこか気になってしまいます。気になるというか、自分の身近に感じることができる「平坦な道」のあるまちについて、ことばにしようと思いながらまだうまくことばにできないものが、この道のような道にあるからかもしれません。

かえりに奥戸一丁目の「鬼塚」(たかさ1mほどの、中世からあるとつたえられている塚)をみたあと、あまりに適当にうろうろしていたため方角がわからなくなり、気がつくと江戸川区の上一色まできてしまいました。心の準備なくはじめてのまちにくると、意外とうろたえます。


以上が、「東京の平坦な道」についての記事です。「町歩き」的なテレビ番組や文章って、そのほとんどが外側からの印象というか、それはそれでいいんですけど、やっぱり当事者としていだく違和感や、なんかちがうなあっていうきもちがつねにあって、そのむずがゆさをなんとかしたかったんです。中央の、つまり東京のメディアでとりあげられる「東京」って、あんまりその内側からはみていないような気がします(いわんやその他の地方をや) (( 初期の『モヤモヤさまぁ〜ず』(テレビ東京系)は、墨田区出身の二人のローカルな東京観にすごく共感できて、おもしろかったです。 脳内地図にかたよりがあったり、縁のあるまち以外はあまり知らなかったり、二人の身体は東京を内側からみています。その感覚のローカルさは全国ネットには貴重です。)) 。このあいだ読んだ『日本橋バビロン』(文芸春秋社、2007年)という本で、著者で現在の中央区東日本橋で生まれた小林信彦は、こうかいています。

改めて、生まれた町と家について書きたいと思い立ったのは、昭和の旧日本橋区を内側から描いた(原文傍点)書物が一冊もないからである。<日本橋>というと、三越、山本山、にんべんといった名店がならぶあの一帯と、人形町に軽く触れて終る。雑誌の<日本橋特集>というのは、そうしたものである。

かたられるのをまつだけでなく、縁のある土地について、もっと自分の記憶で、自分のことばでかたってみたっていいんじゃないでしょうか。ステレオタイプって(自分自身がいだいているものもふくめ)ろくなもんじゃないです。わたしたちのまわりは、もっといろいろなはずです。そして特別なまちじゃなくたって意外と、なんにもなくないもんです。またおりをみて、「東京の平坦な道」についてかいてみるつもりです。

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